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谷戸には、里山や赤道(あかみち),畦道(あぜみち),田の畔(たのくろ)という
道があります。
里山は、木を切って炭を焼いたり、落ち葉をかき集めて堆肥を作ったり、近くの土手
は草刈りをして田んぼの肥料として活用しました。
赤道は隣村などに抜ける公道で、誰でも通ることができる道です。明治時代地図上に
赤色で示したのでこの名が付きました。
畦道は向いの里山や左右の田んぼに行くための道で、その地区の土地所有者だけが通
る道です。
田の畔は個人所有の田んぼの仕切りで、その土地の所有者だけが使用する通路です。
昔はこの区分が厳密に守られていて、隣村から伝言を預かってきた人などは、
畦道には入らず赤道に立って話を伝えたものです。
【
KTさん談 】
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瀬上沢を歩いた人は皆、”横浜に、こんな近くに、こんな田舎の景色が!”と驚きます。
でも景色だけではありません。
いまでは周辺に整備された住宅街が広がる瀬上・上郷町地区ですが、古くからの住民の間
には、昔ながらの”講”という組織(活動)が残っています。
”講”は、古くから全国に続いてきた、お寺の檀家(信徒)の組織のかたちですが、
”お寺・信仰”という本題と共に、日々、季節毎の地域社会での暮らし、慣習、イベント等の営
みを通して、地域での現実的課題を解決し、互助精神を育て、地域の平安と伝統を作り上げ
守ってきた、”風習”とも言えるでしょう。
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【TTさん談】
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第2次大戦の末期、瀬上の横堰の後ろの山に日本軍が高射砲陣地を築いた。
いつも5〜6人の兵隊さんがいた。馬もいた。
兵隊さんは食い物が不足しているとみえて、近所の農家に米や野菜をもらいに
来ていた。
最後は困って、馬と食料を交換したということも聞いた。
そのうちに戦争は終わってしまい、飛行機を撃ったのは見たことがなかった。
ー 終戦の時は5歳だったが、家が近くだったのでよく覚えている。ー
【STさん談】
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昭和20年代、瀬上の急な山の上の畑へ肥料、農作物などの運搬や農耕用に
牛や馬を飼っていた。
牛は重い荷物を載せて急な登り坂を前足の膝をついても上がってくれた。
馬は重い荷物を載せていると坂の手前で止まってしまい、荷物を下ろすと
調子よく坂を登った。 ー 馬は頭がいいんだな ー。
【ATさん談】
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港南台で、小中学生時代をすごした方は、必ずと言って良いほど、「瀬上の森」に行ったでしょう。
私もその一人です、小学校では6年間、円海山や、瀬上の池で野外活動。枯葉拾い競争をしたり
他の学年のお姉さん、お兄さんとハイキングする「ふれあい」学習がありました。
そんな学習を6年間していくうちに、自然と瀬上と子供たちが一体になり、休みの日には、ザリガ
ニを釣りに行ったり、めだかを探しに行きました。そして、頂上にある、無線基地は小学生である
私たちには、「宇宙人の家」に見えました。現在でも、私は何の建物だかわかっていません・・。
中学生になると、環境問題を学習するようになり、ごみ拾いをする野外活動がありました。
そして、生徒の間では、瀬上沢でグループデートをすると、必ずカップルが誕生する・・・・という噂
もありました(笑)
現在28歳ですが、こんな楽しい思い出がある事で、心が満たされます。
【NYさん】
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小学校5年生から中学生の頃、夏になると瀬上池で泳いだ。
深くて広くて時々ヘビも泳いでいて怖かったが、ここで泳いだ事が勲章みたいに威張れた。
その頃はプールなど知りもせず、ガキ大将に連れられて、いたち川のあちこちにあった
灌漑用の堰(せき)でも泳ぎまわっていた。
もう50年以上前の話になってしまった。
【TTさん】
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Copyright (C) 2008 ホタルのふるさと瀬上沢基金
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